親愛なる読者の皆様、

永遠は、間違うには非常に長い時間です!

このことを念頭に置いて、神の言葉である聖書があなたの永遠の行き先について何と言っているかを注意深く読んでください。

1. 神は嘘をつくことができません。聖書には、「永遠の命の希望を持ち、偽ることのできない神が、世の始まる前から約束しておられた」(テトス1:2)とあります。

2. 神は変わることができません。神の言葉には、「わたしは主である。わたしは変わることがない。それゆえ、ヤコブの子らは滅びない」(マラキ3:6)とも記されています。

3. 神は、生まれ変わらなければ誰も天国に入れることはできません。聖書はこの真実を次のように断言しています。「…よくよくあなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。

聖書の驚くべき不思議を考えてみましょう

「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に導くために有益です。」(テモテへの第二の手紙 3:16)。2001 年 9 月 11 日のテロ攻撃から 1 年が経ったとき、ペンシルベニア州ジョンズタウンのトム・ラヴィス氏はトリビューン・デモクラット紙に次のような記事を寄稿しました。

「2001 年 9 月 11 日に発生した混乱の中で世界が希望の兆しを探しているなら、それを見つけたかもしれません。シャンクスビル近郊で発生した 93 便の墜落に対応した救急隊員チームは、驚くべき発見をして衝撃と感動を与えました。40 人の罪のない犠牲者が亡くなった、くすぶる 25 フィートの深さのクレーターからそう遠くない場所で、消防士たちはかろうじて焦げた聖書を発見しました。」私たちは永遠に赦され、天国に私たちのための場所が確保されています。神は御言葉に対する次のような確信を私たちに与えてくださいます。

「もし私たちが人の証しを受け入れるなら、神の証しはもっとまさるものである。これは神が御子について立てた証しである。神の御子を信じる者は、その証しを自分自身のうちに持っている。神を信じない者は、御子を偽り者とする。なぜなら、神が御子について立てた証しを信じないからである。そして、その証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださり、その命が御子のうちにあるということである。御子を持つ者は命を持っている。神の御子を持たない者は命を持っていない。神の御子の名を信じるあなたがたにこれらのことを書き送ったのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知り、また神の御子の名を信じるようになるためである。」 (ヨハネ第一 5:9-13) (下線追加)

この注目すべき記事は、神がこの現代世界に御言葉を保存して、私たちが神の心を知ることができるようにしてくださっていることを明らかにしています。「主の心をだれが知って、主を教えることができただろうか。しかし、私たちはキリストの心を持っています」(コリント人への第一の手紙 2:16)。批評家は聖書の信用を失墜させようとし、悪魔は聖書に疑問を投げかけ、神を憎む者は聖書を燃やそうとし、教育者は聖書を嘲笑し、連邦政府はすべての機関から聖書を排除しようとしました。しかし、天の真の神はその言葉を永遠に保存しました! 文字通りの火でさえ、ほんの数分ですべてを焼き尽くしても、神が真実として確立したものを燃やすことはできないということを神が世界に示したかったのかもしれません! 「主は知恵を与え、その口からは知識と悟りが出る」(箴言 2:6)。

聖書はイエスの口を通して語られた神の心です

神の言葉は、すべての人類に救済の計画を伝えました。「...私があなたにこのことを行うので、あなたの神に会う用意をしなさい...」(アモス書 4:12)。聖書のキリスト教は、イエス・キリスト(神の子)を通して天の神と個人的な関係を築き、聖霊なる神によってキリスト教徒の心に確証されます。「私たちは神から出た者です。神を知る者は私たちの言うことを聞き、神から出ない者は私たちの言うことを聞きません。これによって私たちは真理の霊と誤りの霊とを知るのです」(ヨハネ第一 4:6)。

聖書を信じるキリスト教徒だけが永遠の安全を保証されています。他のすべての宗教は神のために善行を要求し、イエスが「すべて苦労して重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげます」(マタイ 11:28)と言ったことを決して明かしません。善行重視の宗教の信者はかつて、自分は二つの翼で飛んでいると言いました。一つは希望の翼、もう一つは恐れの翼です。「神が私たちに下さったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(テモテ第二 1:7)。神は恐れの精神を与えないので、それはサタン、つまりすべての行為重視の宗教の首謀者から来るに違いありません。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たものではなく、神からの賜物です。行為によるのではありません。だれも誇ることのないためなのです」(エペソ人への手紙 2:8、9)。イエスが与えてくださる平安(休息)は、十字架上でのイエスの働きを永遠の天国への切符として信頼することで得られるものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

今読むのをやめないでください!あなたの人生にイエス・キリストがいなければ、あなたは自分の罪の代価を払わなければなりません。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命です」(ローマ人への手紙 6:23)。

「しかし、私たちは、死の苦しみのために天使たちより少し低くされたイエスが、栄光と誉れの冠を授けられたのを見ています。それは、神の恵みにより、すべての人のために死を味わうためでした。」 (ヘブル人への手紙 2:9)

「聖書は、研究されるたびに著者がそこにいる唯一の教科書です!」

三位一体の神について考える

聖書のキリスト教の根本的真理は、三位一体にしっかりと根ざしています。「天において証しするものが三人いる。父と言葉と聖霊である。そして、この三つは一つである。」(ヨハネ第一 5:7)この聖句は、神の位格のそれぞれが明確な個性を持っていることを保証しています。それぞれは別々に機能しますが、決して他のものと矛盾することはありません。したがって、神は3つの異なる位格から成り立っているため、三位一体の神と呼ばれることもあります。

神 | 父

三位一体の神の第一位格は父なる神です。イエスはヨハネの福音書の中で、自分がどこから来たのかを説明しています。「わたしは父のもとから出て、世に来た。そして、わたしは世を去って父のもとに行く」(ヨハネ16:28)。イエスが地上での宣教活動を行っていた間、父なる神はまだ天におられたことを聖書が確証していることに注目してください。また、父なる神のもう一つの特質にも注目してください。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊とまこととをもって神を礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。父なる神は霊なのです!

神 | 息子

子なる神は三位一体の神の第二位格です。「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。この一節では、肉体をも​​った神であるイエスが、全人類の罪を償うために人間の形をとったことが分かります。「言は肉となり、私たちの間に住まわれた。私たちはその栄光を見た。父の独り子としての栄光であり、恵みとまことに満ちていた」(ヨハネ1:14)。「言」は大文字で書かれていますが、これは聖書の中でイエスに与えられた多くの固有名詞の1つだからです。「...言は肉となった...」それがイエスです!

イザヤ7:14で預言されているように、イエスは処女懐胎を通して人間の形でこの世に来られました。「それゆえ、主自らあなたがたにしるしを与えられる。見よ、処女がみごもって男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。」さらに、聖書はイエスの永遠の地位を明確にしています。「イエスは、きのうも、きょうも、いつまでも同じです」(ヘブル人への手紙 13:8)。

聖書の多くの箇所は、イエス・キリストが肉体を持った神であるという教義を教えています。ここにこの真理の別の例があります。「しかし、子に対してはこう言われます。『神よ。あなたの御座は、世々限りなく…』」(ヘブル人への手紙 1:8)。この箇所で、神が子を神と呼んでいることに注目してください。イエスは、アダムが創造されるずっと前からの人間の本来の姿です。

聖書は、イエス・キリストが天国への唯一の道であると教えています。

「イエスは彼に言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできない。』」(ヨハネによる福音書 14:6)(下線追加)。永遠の結果のため、イエスがなぜこの発言をする権威を持っているのか理解することは極めて重要です。

「光の中にいる聖徒たちの相続財産にあずかるにふさわしい者としてくださった父に感謝します。父は私たちを闇の力から救い出し、その愛する御子の王国に移してくださいました。私たちは御子の血によって贖いを受け、罪の赦しを得ています。御子は見えない神のかたちであり、すべての被造物の長子です。天にあるもの地にあるもの、見えるもの見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって創造されたのです。すべてのものは御子によって、また御子のために創造されました。御子はすべてのものの前におられ、すべてのものは御子によって成り立っています。御子は体である教会の頭です。御子は初めであり、死人の中から最初に生まれた方です。それは、すべてのものの中で、御子が第一となるためです。御子のうちにすべての満ち満ちたものが宿ることを、御父は望まれたからです。そして、十字架の血を通して平和を作り、それによって、地にあるものであれ天にあるものであれ、すべてをご自身のもとに和解させてくださったのです。(コロサイ1:12-20)(下線は筆者による)

神 | 父

この一節は、イエスが万物の創造者であることを明らかに説明しています。創世記 1:1 には、「初めに神は創造された」とあります。したがって、イエスは神の子であるだけでなく、神の子でもあります。「万物は、彼によって創造されたからである」。コロサイ人への手紙 1:16 では、イエスが万物を創造したと述べられており、創世記 1:1 では神が創造したと宣言されていますが、では神は誰でしょうか。イエスは間違いなく神です。

使徒パウロは、イエスが神であることを再び明らかにしています。

「疑いの余地なく、敬虔の奥義は偉大です。神は、肉において現れ、御霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人に宣べ伝えられ、世に信じられ、栄光のうちに上げられました。」 (テモテへの第一の手紙 3:16)

また、使徒パウロは神の啓示により、コリントの教会の信者たちにイエスが神の子であるという真実を断言しています。

「ですから、私たちはキリストの使節です。神が私たちを通してあなた方に懇願なさったのです。私たちはキリストに代わってあなた方にお願いします。神と和解してください。神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが彼(イエス)にあって神の義とされるためです。」(コリント人への第二の手紙 5:20、21) (下線と説明を追加)

イエスが神であるという真実を合理的な疑いの余地なく確証する聖句がもう 1 つあります。「ですから、あなたがた自身と群れ全体とに気をつけなさい。神がその血で買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなた方をその管理人に任命されました。」(使徒行伝 20:28) (下線を追加)。神は「神の教会」を神の血、神の子であるイエスの血で買い取ったことに注目してください。

イエスは神であり、地上で罪のない人生を送ったので、生まれてきたすべての人の罪のために罪のない体を犠牲にすることができ、実際に犠牲にしたのはイエスだけです。「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ 3:16, 17)。聖書はイエス・キリストという人物が誰であるかを明らかにしており、天国に行くには生まれ変わらなければならないとイエスはおっしゃっているので、「…あなたがたは生まれ変わらなければならない」(ヨハネ 3:7)とイエスが言った意味を理解することは極めて重要です。

他のすべての宗教や聖書のキリスト教と大きく異なる点は、イエスが神であるという事実です。

神 | 聖霊

前の段落で、イエスの権威は神の子であると確立しました。今、イエスは聖霊なる神を三位一体の神の第三位格であると宣言しています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせてくれるであろう」(ヨハネ14:26)。この節で三位一体の3つの異なる部分すべてに注目してください。父はイエスの名によって聖霊を遣わしたのです。

次に、目に見えない神の似姿であるイエスが、弟子たちに死、埋葬、復活について教えているときに、次のように述べたことに注目してください。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け主をあなたがたにお与えになって、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。世はその御霊を受けることができない。世はそれを見もせず、知もしないからである。しかし、あなたがたはそれを知っている。聖霊はあなたたちとともに住み、またあなたたちのうちにおられるからである」(ヨハネ14:16, 17)。聖霊なる神が誰かの心に宿るとき、その人の霊を義の道に容易に導くことができます。しかしもちろん、聖霊の導きに従って生きるかどうかは、その人次第です。

あなたは神の似姿に創造された

最初に創造された人であるアダムは、イエスをモ​​デルにしました。「神は言われた。『われわれのかたちに、われわれに似せて、人を造ろう』」(創世記 1:26)。「われわれのかたちに」と「われわれのかたちに」はどちらも複数形です。三位一体の神は、3つの異なる部分を持つ人間を創造しました。アダムが形づくられた後、イエスは彼に命の息を吹き込みました。「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。すると、人は生きた者となった」(創世記 2:7)。神は私たちの息を創造したのではなく、神の息を私たちに与えたのです!

テサロニケ人への第一の手紙の結びのコメントで、使徒パウロはこう述べています。「平和の神が、あなたがたを全く聖別してくださいますように。また、あなたがたの霊と魂と体が、主イエス・キリストの来臨のときまで、傷のないままに守られますようにと、私は神に祈ります」(テサロニケ人への第一の手紙 5:23)。三位一体の神と同様に、人間にも三つの部分があります。霊(その重要性から最初に挙げられています)、魂、そして肉体です。

次に、目に見えない神の似姿であるイエスが、弟子たちに自身の死、埋葬、復活について教えているときに、次のように述べたことに注目してください。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け主をあなたたちのもとにお与えになる。その助け主はいつまでもあなたたちとともにおられる。それは真理の御霊である。世はその御霊を受け入れることができない。見もせず、知もしないからである。しかし、あなたたちはその御霊を知っている。その御霊はあなたたちとともに住み、あなたたちのうちにおられるからである」(ヨハネ14:16、17)。聖霊なる神が誰かの心に宿るとき、その人の霊に義の道を教えることは容易です。しかしもちろん、聖霊の導きに従って生きるかどうかは、その人次第です。

人間 | 人間の精神

人間の第一で最も重要な部分は、霊です。人間の霊的な部分は、神と人が出会い、交わり、親交を深め、神がすべての霊的な指示を与える場所です。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたの体は、あなたがたのうちに宿っている、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、自分自身のものではないことを。」(コリント人への第一の手紙 6:19)。神がいることを知って信じることと、神を救い主とすること(生まれ変わること)は別物です。「あなたは、神は唯一であると信じている。それはよいことだ。悪魔も信じておののいている」(ヤコブの手紙 2:19)。信者の内に宿る聖霊は、信者を義の道に導きます。「しかし、真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくれるでしょう…」(ヨハネによる福音書 16:13)。

人間の霊は、すべての霊的な事柄において神とコミュニケーションをとる部分です。 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまこととをもって神を礼拝しなければなりません」(ヨハネ 4:24)。死んだ霊は、生ける神とコミュニケーションをとることはできません。「しかし、生まれながらの人(不信者)は、神の霊の賜物を受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、御霊によって判断されるべきものであるため、理解することもできません」(コリント人への第一の手紙 2:14)(括弧内に説明を追加)。

神のシンプルな救いの計画を聞いた人は、イエスを自分の人生に招き入れ、永遠の罰から救い、天国に永遠の住まいを与える機会を受け入れるか拒否するかを決めます。イエスを信頼する選択をすれば、その人の霊はすぐに生き返ります。「御霊みずから、わたしたちの霊に、わたしたちが神の子どもであることを証しして下さるのです」(ローマ人への手紙 8:16)。拒否すれば、信じられないかもしれませんが、地獄の炎が彼らを待ち受けています。 「しかし私は、蛇が悪巧みでエバを惑わしたように、あなたがたの思いが堕落して、キリストにある純真さを失うようなことがあってはならないと恐れています。」(コリント人への手紙二 11:3)永遠の救いは簡単です。イエスが道を開いてくださったので、あなたがたはただ信じて受け入れるだけです。

人間 | 人間の体

体についてはほとんど説明がありません。それは単に私たちの肉体です。私たちがまだ息をしている間、私たちの体は私たちの霊と魂を宿しています。神は私たちが永遠をどこで過ごすかを決めるために、この短い地上の体での期間を私たちに与えています。もし神が人々に信仰を強制するなら、神は創造物をもてあそぶ独裁者になるでしょう。真実は、神は聖書、神の聖なる言葉を使って、神が創造した存在から神の子になる方法を教えてくださるということです。「しかし、彼を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)多くの人が、私たちはみな神の子だと思っています。これは希望的観測です!この聖句によると、人はイエスを自分の主であり救い主として受け入れた後、神の子になります。「あなたがたはみな、キリスト・イエスを信じる信仰によって神の子なのです。」(ガラテヤ3:26)聖書は、すべての不信者の父が誰であるかを非常に明確に示しています。イエスは当時の宗教指導者たちと議論を交わしていたとき、この真理を記録しました。

「イエスは彼らに言われた。『神があなたたちの父であるなら、あなたたちはわたしを愛するはずだ。わたしは神から出て来た。わたしは自分から来たのではなく、神がわたしを遣わしたのだ。なぜわたしの言うことが分からないのか。わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは悪魔の父から出た者であって、あなたたちの父の欲するままに行うであろう。悪魔は初めから人殺しであり、真理にとどまらなかった。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うときは、自分自身から言っているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからである。』(ヨハネ 8:42-44)

人間 | 人間の魂

魂はあなた自身です。魂はあなたの心、意志、知性であり、あなたが決断を下す場所です。目は光を集める物理的な道具ですが、魂はすべてをまとめて対象物の視覚を与えます。魂は痛みを感じ、他人への思いやりを表現する場所です。記憶も魂の一部です。

ルカ16:19-31は2人の男の物語です。1人は「ラザロ」(実在の人物の実名)という名の貧しい物乞いで、もう1人は「ある金持ち」として知られています。ラザロは貧しい物乞いだったために天国に行ったのではなく、生まれ変わったために天国に行ったのです。

「ある金持ちがいて、紫の衣と細布を着て、毎日豪華な食事をしていた。そこにラザロという乞食がいて、その金持ちの門口に横たわり、体中できもので、金持ちの食卓から落ちるパンくずで食事をしたいと願っていた。そのうえ、犬が来て、そのできものをなめた。やがて、その乞食は死に、天使によってアブラハムのふところに運ばれた。金持ちもまた死に、葬られた(彼の肉体は葬られた)。そして陰府で苦しみながら目を上げると、はるか遠くにアブラハムとそのふところにラザロがいるのが見えた。そして彼は叫んで言った、「父アブラハムよ、私をあわれんでください。ラザロを遣わしてください。彼が指先を水に浸し、私の舌を冷やすように。私はこの炎で苦しんでいるのですから。」しかしアブラハムは言った。「息子よ、思い出しなさい。あなたは生きている間に良いものを受け、ラザロは悪いものを受けた。しかし今は、彼は慰められ、あなたは苦しんでいる。そればかりか、私たちとあなたの間には大きな淵が定められている。ここからあなたのところへ渡ろうとしても渡れないし、ここから私たちのところへ渡って来ようとしても渡れないのだ。」それから彼は言った。「父よ、お願いです。彼を私の父の家につかわしてください。私には五人の兄弟がいます。彼が彼らに証言して、彼らもこの苦しみの場所に来ないようにしてほしいのです。」アブラハムは彼に言った。「彼らにはモーセと預言者たちがいる。彼らに聞かせなさい。」彼は言った。「いいえ、父アブラハム。しかし、死人の中からだれかが彼らのところへ行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」イエスは彼に言われた。「もしモーセと預言者の言葉に耳を傾けないなら、たとえ死人の中から生き返った者があっても、彼らはその言葉を信じないであろう。」 (ルカ 16:19-31) (下線は追加、括弧内に説明あり)

ラザロと金持ちの話は、文字通り永遠の苦しみの場所という聖書の真実を認めています。イエスがラザロの名前を記録したという事実は、これがたとえ話ではなく実際の歴史的出来事であることを証明しています。

この節に記録されている出来事に注目してください。

金持ちは亡くなり、人々は彼を墓に埋葬しました。

彼の遺体がまだ墓の中にある間、金持ちはまだ視力、聴力、記憶力、痛みの感覚を持っており、亡くなった家族に同情を示しています。

彼が死んだ瞬間、彼の永遠の魂、つまり見る、聞く、考える、痛みを感じる、亡くなった人への同情心などの感情をすべて含む人間の部分は、すぐに苦しみに襲われました。

23節には、彼の記憶力も非常に鋭敏だったことがはっきりと述べられています。彼は物乞いの名前を呼びました。

無名の金持ちと私たちへの教訓

名もなき金持ちは、イエスを否定する人々に関する永遠の真理を語っています。「それゆえ、見よ、わたしは、あなたをすっかり忘れ、わたしがあなたとあなたの先祖に与えた町を捨て、わたしの前からあなたを追い出す」(エレミヤ書 23:39)。愛する人たちが地獄にいると知っていたら、天国は礼拝と喜びの場にはなり得ません。彼らは私たちの記憶から、さらに悪いことに、神の記憶からも消されてしまうのです!「彼らを生ける者の書から消し去り、義人とともに書き記さないでください」(詩篇 69:28)。罪人が救いのためにキリストだけを信じる瞬間、彼らの名前は生命の書に記されます。この本は、彼らが永遠に天国にいることを記録します。

「そしてわたしは、死んだ者たちが、小さい者も大きい者も、神の前に立っているのを見た。そして、書物が開かれた。もう一つの書物が開かれた。それはいのちの書であった。死人は、その書物に書かれていることにしたがって、その行いに応じて裁かれた。海はその中にいる死人を出し、死と黄泉もその中にいる死人を出した。彼らはそれぞれその行いに応じて裁かれた。そして、死と黄泉は火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名が記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録 20:12-15)

永遠の命という無償の賜物を受けなかった者(霊的に死んだ者)だけが、他の書物に記録されている罪によって裁かれる。「わたしを拒み、わたしの言葉を受けいれない者には、その人を裁く者がいる。わたしの語った言葉が、終りの日にその人を裁くであろう」(ヨハネ 12:48)。生まれ変わったクリスチャンにとって、彼らのすべての悪行はイエスの血によって償われた。 「わたしは彼らの罪と咎をもう思い出さない」(ヘブル人への手紙 10:17)。

聖書によれば、彼らは金持ちの遺体を埋葬し、彼の魂はすぐに地獄へ行きました。彼の肉体と魂は最後の審判まで分離したままになります。そして審判の日が来ると、彼の魂と肉体は再び結合し、大いなる白い御座の審判のために神と対面します。「そして海はその中にいる死者を出し(肉体)、死と陰府もその中にいる死者を出しました(地獄にいる生きた魂)。そして、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた」(黙示録 20:13)(括弧内に説明を追加)。判決を受けると、彼は文字通り燃える地獄で永遠の刑に服し始めます。「そして死と陰府は火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙示録 20:14)。

人の魂は主にとって貴重です。 「しかし神は陰府の力から私の魂を救い出し、私を受け入れてくださる。セラ」(詩篇 49:15)。残念ながら、多くの人が非常に邪悪な生活を送っています。中には、悪魔に魂を売ったと主張する人もいます。そのため、神は彼らを許さないと信じています。真実は、魂は個人のものではなく、神のものであるということです。「見よ、すべての魂は私のものである。父の魂が私のものであるように、子の魂も私のものである。罪を犯す魂は死ぬ。」(エゼキエル 18:4)

自分のものではないものを売ることはできない

自分のものではないものを売ることはできません。人は息をしている限り、神の子になることができます。罪は死をもたらしましたが、イエスは命をもたらすために来られました。使徒パウロはこう言いました。「これは真実で、そのまま受け入れるべきことばです。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られました。その罪人のかしらは私です」(テモテへの第一の手紙 1:15)。神は罪人に対する愛ゆえに、使徒パウロに生まれ変わる機会を与えました。キリストに改宗する前、パウロはキリスト教徒を殺し迫害することで生計を立てていました。生まれ変わった後、神は彼を使って新約聖書の半分以上を書き記しました。彼の証言をよく聞いてください。

「私は、ナザレ人イエスの名にそむいて多くのことをしなければならないと、心の中で思い巡らしました。そして、エルサレムでそのことを行いました。そして、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込めました。彼らが死刑に処せられたとき、私は彼らに反対の声をあげた。」(使徒行伝 26:9-11)

神を箱の中に入れないでください! 彼らが何をしたとしても、イエスが許さない人は一人もいません! キリストは罪人のために死なれました! どうか悪魔の嘘を信じないでください。 あなたは今この瞬間に神の子になることができます!

イエスを否定することは永遠の破滅を選ぶことです! ですから、もう1分も待たずに、今日神を呼び求めてください。「(神はこう言われます。『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き、救いの日にあなたを助けた。見よ、今が恵みの時である。見よ、今が救いの日である。)」(コリント人への手紙第二 6:2)(説明追加)。

地獄を信じなくても、地獄が存在するという事実は変わりません。永遠は、間違っているには長い時間かもしれませんが、正しいことにも長い時間です。

いつでもどこでも、永遠の救いを受けることができます。祈りましょう。愛する主なる神よ、私は自分が地獄に落ちる罪人であることを知っています。あなたに対して罪を犯したことを申し訳なく思っています。神の子イエスが十字架上で亡くなり、私のために復活されたことを信じています。どうか私の罪を赦し、私の心に入り、あなたに喜ばれる人生を送れるよう助けてください。あなたを私の個人的な主であり救い主として受け入れます。いのちの書に私の名前を記してくださりありがとうございます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

「私はキリストとともに十字架につけられました。しかし、私が生きているのです。しかし、私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。私が今肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげてくださった神の子を信じる信仰によるのです。私は神の恵みをむなしくしません。もし義が律法によって得られるなら、キリストの死はむだになるからです。」 (ガラテヤ 2:20, 21)

生まれ変わるとはどういうことか、さらに詳しく知るために、ぜひ読み続けてください。

あなた方は再び生まれなければならない、第二の誕生

神の言葉の明確な目的は、全人類が神が誰であるか、そして神と永遠を過ごすにはどうすればよいかを知ることです。ヨハネによる福音書第3章では、肉体をも​​った神であるイエス・キリストが、ユダヤ人の指導者で宗教家であるニコデモとこの件について会話を交わしました。イエスはニコデモに、天国に行くために何が必要かを正確に教えました。「イエスは答えて言われた。『よくよくあなたに言います。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」(ヨハネによる福音書3:3)。生まれ変わることの霊的な真理を理解していなかったニコデモは、単純な質問をしました。「…人は年老いてから、どうして生まれることができようか。もう一度母の胎内にはいり、そして生まれることができようか」(ヨハネによる福音書3:4)?

この議論の霊的な性質のため、ニコデモはイエスの言っていることを理解できませんでした。聖書は、イエスの答えの霊的な真理をニコデモが理解できなかった理由を説明しています。 「しかし、生まれながらの人(不信者)は、神の霊の賜物を受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、御霊によって判断されるべきものであるため、理解することもできません」(コリント人への第一の手紙 2:14)(説明を追加)。これらの真理を理解するには、人の霊的な部分が生き返らなければなりません(生まれ変わる)。

ニコデモが質問した後、イエスはニコデモに、天国に行くために人生で経験しなければならない2つの誕生について説明しました。

「イエスは答えられた。『よくよくあなたに言います。人は水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊です。『あなたがたは新しく生まれなければならない』と私が言ったことを不思議に思ってはいけません。」(ヨハネによる福音書 3:5-7)

最初の誕生は水から生まれることです。アレゲニー大学の小児神経科学者は、人によって体内の水分の割合が異なると述べています。赤ちゃんは母親の子宮にいる間、水の袋の中で成長します。羊水は完全に水ではありませんが、水は成分の一部です。羊水が破れると赤ちゃんが生まれます。これが最初の誕生です。2 回目の誕生は、あなたの霊に命を与え、天国での永遠の住まいを確保します。

罪は私たちの霊の死を引き起こしました。「それゆえ、ひとりの人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人に広がったのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ 5:12)。ヨハネ 4:24 が「神は霊です…」と教えていることを思い出してください。神を知り、崇拝することは霊的に行う必要があります。死んだ霊が生きている霊的な神とどのようにコミュニケーションできるのでしょうか。それはできません。しかし、悔い改めて福音(イエスの死、埋葬、復活)を信じるなら、あなたの霊は生き返ります(2 回目の誕生)。あなたの生きた霊は、神とのコミュニケーションを回復し、天国にあなたの住まいを確保します。使徒パウロは、「私はキリストの福音を恥としません。それは、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と宣言しました(ローマ1:16)。

聖書は、生きているすべての人が罪人であることを明確にしています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)。1ミリでも何百万マイルでも、短いことは短いのです!聖書はまた、罪の罰についても明確に述べています。「罪から来る報酬は死です…」(ローマ6:23)。したがって、誰かがあなたの罪の代価を払わなければなりません。あなたには2つの選択肢があります。イエスがあなたに差し出したあなたの罪の代価を受け入れるか、永遠の炎の中で自分で支払うかです。「…しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命です」(ローマ6:23)。

究極の犠牲

肉体をまとった神であるイエス・キリストは人類を非常に愛しており、すべての人の罪のために死ぬために人間の姿で地上に来ました。「キリストは神の御姿でありながら、神のあり方を固守することに固執しようとは思わず、かえって、ご自分を捨てて、僕の姿をとり、人間と同じようになられました。そして、人間の姿をとって現れ、自分を卑しくし、死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順でした」(ピリピ人への手紙 2:6-8)。

神は人間の姿で永遠から抜け出し、私たちの罪の罰を受けました。神がそうされたのは、神を信じるすべての人が、肉体をまとった神として神の姿で永遠に入ることができるためです。「愛する者たちよ。私たちは、今や神の子です。私たちがどうなるのか、まだ明らかではありません。しかし、彼が現れるとき、私たちは彼に似た者となることを知っています。私たちは、彼のありのままの姿を見るからです」(ヨハネの手紙一 3:2)。イエスは、あなたなしで天国で永遠を過ごすよりも、あなたのために死んで地獄に行くことをいとわなかったのです。

生まれ変わったクリスチャンは、自分の救いを自慢する権利はありません。それは彼らの善行によるのではなく、神の善良さによるのです。神が働きをなさり、生まれ変わったクリスチャンが報いを受けるのです。神に栄光を捧げましょう。この真実が、他のすべての宗教と生まれ変わったクリスチャンの違いです。

「私たち自身も、かつては愚かで、不従順で、欺かれ、さまざまな欲と快楽に仕え、悪意とねたみとに生き、憎み合い、互いに憎み合っていました。しかし、その後、私たちの救い主である神の慈しみと愛が、人々に対して現れました。それは、私たちが行った義のわざによるのではなく、神の憐れみにより、再生と更新の洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、私たちの救い主イエス・キリストによって、聖霊を豊かに私たちに注いでくださいました。」(テトス3:3-6)

霊的な誕生

神が永遠の救いのために立てた計画は、再び生まれることです。使徒パウロはエペソの信者たちにこう言いました。「そして、罪過と罪との中に死んでいたあなたがたを、神は生かしてくださいました。」(エペソ人への手紙 2:1)。「生かしてくださった」という言葉には、生き返るという意味があります。パウロは、悔い改めて福音を信じたときに何が起こったかを理解できるように、これらの信者たちに語りました。パウロはそれを個人的なものにしました。「そして、あなた」。イエスを救い主として求めると、あなたの霊は生き返ります。第二の誕生です!使徒パウロは、コリント人への手紙第一 15:41-49 で、霊的な誕生について明確に説明しています。

「太陽の栄光は一つ、月の栄光は一つ、星の栄光は一つです。星の栄光はそれぞれ異なっています。死者の復活も同じです。朽ちるものとして蒔かれても、朽ちないものとしてよみがえり、卑しいものとして蒔かれても、朽ちないものとしてよみがえります。栄光によみがえらされ、弱さに蒔かれ、力によみがえらされる。自然の体で蒔かれ、霊の体でよみがえらされる。自然の体があり、霊の体がある。聖書にこう書いてある、「最初の人アダムは生きた魂とされ、最後のアダムは生かす霊とされた」。しかし、霊的なものが最初ではなく、自然のものが最初にあり、その後に霊的なものが来たのである。最初の人は地から出た、土に由来する者であり、第二の人は天から出た主である。土に由来する者も土に由来する者と同じであり、天に由来する者も天に由来する者と同じである。私たちは土に由来する者の似姿を持っているように、天に由来する者の似姿も持つことになる。(コリント信徒への手紙一 15:41-49)(下線追加)

霊的な誕生

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて言われた。『時が満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』」(マルコ1:14, 15)。使徒パウロはローマ書の中で、信仰は義人になりたいという願いを引き起こすと語っています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神がイエスを死人の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからです。」(ローマ10:9, 10)。人が悔い改める(不信仰から神に立ち返る)その瞬間に、新しい霊的創造物が生まれます。「だから、だれでもキリストにあれば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、新しいものは世に生まれ変わります。」見よ、すべてが新しくなったのです」(コリント人への第二の手紙 5:17)。

この変化は、「…神に対する悔改めと、私たちの主イエス・キリストに対する信仰」(使徒行伝 20:21)によって達成されます。「悔改めとは、罪の悪を発見し、それを犯したことを嘆き、それを捨てる決意をすることです。実際、それは非常に深く実際的な心の変化であり、それによって人はかつて憎んでいたものを愛し、かつて愛していたものを憎むようになります。」

罪人がキリストに救い主として自分の人生に入って来るように求めると、聖霊は死んだ霊に命を吹き込みます。神の息がアダムの魂に命を与えたのと同じように、神の息が霊を生き返らせます。今や彼らは第二の誕生を迎え、神とコミュニケーションをとることが可能になります。「御霊みずから、私たちの霊に、私たちが神の子どもであることを証しして下さるのです」(ローマ人への手紙 8:16)。そよ風に揺れる木の葉のように、罪人の変化した人生は、彼らの霊的誕生の証拠です。人類の救済のための神の永遠の計画は、神からの贈り物です。したがって、まず福音を信じることが不可欠です。イエス(肉体を与えられた神)の処女懐胎、地上での罪のない人生、十字架での死、そして最も重要なのは、復活です。聖書はまた、「敬虔な悲しみは悔い改めを救いに導くからです…」(コリント人への手紙第二 7:10)と述べています。あなたが悔い改め、その結果罪から離れる意志があり、これを達成するのにイエスだけが助けることができると理解しているなら、今日、彼をあなたの救い主として呼び求めてください。「主の名を呼ぶ者はだれでも救われるからです」(ローマ人への手紙 10:13)。神を呼び求めることは、祈りの中で神に話しかけ、あなたの罪を赦し、神に喜ばれる人生を送れるよう助けてくださるよう神を心に迎え入れることです。以下の祈りは模範的な祈りです。空欄を埋めながら神に直接話しかけてください。

祈り: 愛する主なる神よ、私は自分が地獄に堕ちる罪人であることを知っています。あなたに対して罪を犯したことを後悔しています。神の子イエスが十字架上で亡くなり、私のために復活したことを信じています。どうか私の罪をお赦しください。私の心に入って、あなたに喜ばれる人生を送れるよう助けてください。あなたを私の主であり救い主として受け入れます。私の名前を生命の書に記してくださりありがとうございます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

これで安心です!

あなたの内に住まわれる神の御霊は、あなたが本当に天国に行けるかどうか疑問に思うことを望んではおられません。神は、私たちが永遠に赦され、天国に私たちのために場所が用意されていることを私たちに知ってほしいのです。神は御言葉の中で、私たちに次のような確信を与えてくださいます。「もし私たちが人の証しを受け入れるなら、神の証しはもっとまさっている。これは、神が御子について立てた証しである。神の御子を信じる者は、その証しを自分自身のうちに持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。それは、神が御子について立てた証しを信じないからである。そして、その証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださり、この命が御子のうちにあるということである。御子を持つ者は命を持っているが、神の御子を持たない者は命を持っていない。神の御子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書き送ったのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知り、また、神の御子の名を信じるようになるためである。」 (ヨハネ第一 5:9-13) (下線追加)

善行で救われたとしても、悪行で再び失われる可能性もあります。しかし、神の恵みによって生まれ変わったなら、神の慈悲によって永遠に救いが保証されます。「私たちが行なった義のわざによってではなく、神の慈悲により、再生の洗いと聖霊による更新によって、神は私たちを救ってくださいました。」(テトス 3:5)

人が肉体的に生まれた瞬間、その人には過去の記録はありません。その同じ人が霊的に生まれ変わると、罪深い過去の歴史は神の目に完全に消え去ります。以下は、あなたを喜ばせる聖書の言葉です:

「聖霊もまた、私たちの証人です。主はこう言われました。『それらの日々の後、わたしが彼らと結ぼうとする契約はこれである。わたしはわたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いにそれを書きつける。わたしは彼らの罪と不義をもう思い出さない。」(ヘブル人への手紙 10:15-17)

「東が西から遠く離れているように、主はわたしたちのそむきをわたしたちから遠く離してくださった。」(詩篇 103:12)

「主は再びわたしたちをあわれみ、わたしたちの不義を制し、彼らのすべての罪を海の深みに投げ捨ててくださる。」(ミカ書 7:19)

今日、主を救い主としてお求めになった方は、表紙の裏に記載されている情報を添えてご連絡ください。私たちはあなたの決断を喜び、神とともに歩む新たな道を喜んでお手伝いいたします。神の家族へようこそ!神の祝福がありますように!

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