永遠は、間違うには非常に長い時間です!
このことを念頭に置いて、神の言葉である聖書があなたの永遠の行き先について何と言っているかを注意深く読んでください。
1. 神は嘘をつくことができません。聖書には、「永遠の命の希望を持ち、偽ることのできない神が、世の始まる前から約束しておられた」(テトス1:2)とあります。
2. 神は変わることができません。神の言葉には、「わたしは主である。わたしは変わることがない。それゆえ、ヤコブの子らは滅びない」(マラキ3:6)とも記されています。
3. 神は、生まれ変わらなければ誰も天国に入れることはできません。聖書はこの真実を次のように断言しています。「…よくよくあなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。
「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に導くために有益です。」(テモテへの第二の手紙 3:16)。2001 年 9 月 11 日のテロ攻撃から 1 年が経ったとき、ペンシルベニア州ジョンズタウンのトム・ラヴィス氏はトリビューン・デモクラット紙に次のような記事を寄稿しました。
「2001 年 9 月 11 日に発生した混乱の中で世界が希望の兆しを探しているなら、それを見つけたかもしれません。シャンクスビル近郊で発生した 93 便の墜落に対応した救急隊員チームは、驚くべき発見をして衝撃と感動を与えました。40 人の罪のない犠牲者が亡くなった、くすぶる 25 フィートの深さのクレーターからそう遠くない場所で、消防士たちはかろうじて焦げた聖書を発見しました。」私たちは永遠に赦され、天国に私たちのための場所が確保されています。神は御言葉に対する次のような確信を私たちに与えてくださいます。
「もし私たちが人の証しを受け入れるなら、神の証しはもっとまさるものである。これは神が御子について立てた証しである。神の御子を信じる者は、その証しを自分自身のうちに持っている。神を信じない者は、御子を偽り者とする。なぜなら、神が御子について立てた証しを信じないからである。そして、その証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださり、その命が御子のうちにあるということである。御子を持つ者は命を持っている。神の御子を持たない者は命を持っていない。神の御子の名を信じるあなたがたにこれらのことを書き送ったのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知り、また神の御子の名を信じるようになるためである。」 (ヨハネ第一 5:9-13) (下線追加)
この注目すべき記事は、神がこの現代世界に御言葉を保存して、私たちが神の心を知ることができるようにしてくださっていることを明らかにしています。「主の心をだれが知って、主を教えることができただろうか。しかし、私たちはキリストの心を持っています」(コリント人への第一の手紙 2:16)。批評家は聖書の信用を失墜させようとし、悪魔は聖書に疑問を投げかけ、神を憎む者は聖書を燃やそうとし、教育者は聖書を嘲笑し、連邦政府はすべての機関から聖書を排除しようとしました。しかし、天の真の神はその言葉を永遠に保存しました! 文字通りの火でさえ、ほんの数分ですべてを焼き尽くしても、神が真実として確立したものを燃やすことはできないということを神が世界に示したかったのかもしれません! 「主は知恵を与え、その口からは知識と悟りが出る」(箴言 2:6)。
聖書はイエスの口を通して語られた神の心です
神の言葉は、すべての人類に救済の計画を伝えました。「...私があなたにこのことを行うので、あなたの神に会う用意をしなさい...」(アモス書 4:12)。聖書のキリスト教は、イエス・キリスト(神の子)を通して天の神と個人的な関係を築き、聖霊なる神によってキリスト教徒の心に確証されます。「私たちは神から出た者です。神を知る者は私たちの言うことを聞き、神から出ない者は私たちの言うことを聞きません。これによって私たちは真理の霊と誤りの霊とを知るのです」(ヨハネ第一 4:6)。
聖書を信じるキリスト教徒だけが永遠の安全を保証されています。他のすべての宗教は神のために善行を要求し、イエスが「すべて苦労して重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげます」(マタイ 11:28)と言ったことを決して明かしません。善行重視の宗教の信者はかつて、自分は二つの翼で飛んでいると言いました。一つは希望の翼、もう一つは恐れの翼です。「神が私たちに下さったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(テモテ第二 1:7)。神は恐れの精神を与えないので、それはサタン、つまりすべての行為重視の宗教の首謀者から来るに違いありません。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たものではなく、神からの賜物です。行為によるのではありません。だれも誇ることのないためなのです」(エペソ人への手紙 2:8、9)。イエスが与えてくださる平安(休息)は、十字架上でのイエスの働きを永遠の天国への切符として信頼することで得られるものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。
今読むのをやめないでください!あなたの人生にイエス・キリストがいなければ、あなたは自分の罪の代価を払わなければなりません。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命です」(ローマ人への手紙 6:23)。
「しかし、私たちは、死の苦しみのために天使たちより少し低くされたイエスが、栄光と誉れの冠を授けられたのを見ています。それは、神の恵みにより、すべての人のために死を味わうためでした。」 (ヘブル人への手紙 2:9)
「聖書は、研究されるたびに著者がそこにいる唯一の教科書です!」
イザヤ7:14で預言されているように、イエスは処女懐胎を通して人間の形でこの世に来られました。「それゆえ、主自らあなたがたにしるしを与えられる。見よ、処女がみごもって男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。」さらに、聖書はイエスの永遠の地位を明確にしています。「イエスは、きのうも、きょうも、いつまでも同じです」(ヘブル人への手紙 13:8)。
聖書の多くの箇所は、イエス・キリストが肉体を持った神であるという教義を教えています。ここにこの真理の別の例があります。「しかし、子に対してはこう言われます。『神よ。あなたの御座は、世々限りなく…』」(ヘブル人への手紙 1:8)。この箇所で、神が子を神と呼んでいることに注目してください。イエスは、アダムが創造されるずっと前からの人間の本来の姿です。
聖書は、イエス・キリストが天国への唯一の道であると教えています。
「イエスは彼に言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできない。』」(ヨハネによる福音書 14:6)(下線追加)。永遠の結果のため、イエスがなぜこの発言をする権威を持っているのか理解することは極めて重要です。
「光の中にいる聖徒たちの相続財産にあずかるにふさわしい者としてくださった父に感謝します。父は私たちを闇の力から救い出し、その愛する御子の王国に移してくださいました。私たちは御子の血によって贖いを受け、罪の赦しを得ています。御子は見えない神のかたちであり、すべての被造物の長子です。天にあるもの地にあるもの、見えるもの見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって創造されたのです。すべてのものは御子によって、また御子のために創造されました。御子はすべてのものの前におられ、すべてのものは御子によって成り立っています。御子は体である教会の頭です。御子は初めであり、死人の中から最初に生まれた方です。それは、すべてのものの中で、御子が第一となるためです。御子のうちにすべての満ち満ちたものが宿ることを、御父は望まれたからです。そして、十字架の血を通して平和を作り、それによって、地にあるものであれ天にあるものであれ、すべてをご自身のもとに和解させてくださったのです。(コロサイ1:12-20)(下線は筆者による)
使徒パウロは、イエスが神であることを再び明らかにしています。
「疑いの余地なく、敬虔の奥義は偉大です。神は、肉において現れ、御霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人に宣べ伝えられ、世に信じられ、栄光のうちに上げられました。」 (テモテへの第一の手紙 3:16)
また、使徒パウロは神の啓示により、コリントの教会の信者たちにイエスが神の子であるという真実を断言しています。
「ですから、私たちはキリストの使節です。神が私たちを通してあなた方に懇願なさったのです。私たちはキリストに代わってあなた方にお願いします。神と和解してください。神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが彼(イエス)にあって神の義とされるためです。」(コリント人への第二の手紙 5:20、21) (下線と説明を追加)
イエスが神であるという真実を合理的な疑いの余地なく確証する聖句がもう 1 つあります。「ですから、あなたがた自身と群れ全体とに気をつけなさい。神がその血で買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなた方をその管理人に任命されました。」(使徒行伝 20:28) (下線を追加)。神は「神の教会」を神の血、神の子であるイエスの血で買い取ったことに注目してください。
イエスは神であり、地上で罪のない人生を送ったので、生まれてきたすべての人の罪のために罪のない体を犠牲にすることができ、実際に犠牲にしたのはイエスだけです。「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ 3:16, 17)。聖書はイエス・キリストという人物が誰であるかを明らかにしており、天国に行くには生まれ変わらなければならないとイエスはおっしゃっているので、「…あなたがたは生まれ変わらなければならない」(ヨハネ 3:7)とイエスが言った意味を理解することは極めて重要です。
他のすべての宗教や聖書のキリスト教と大きく異なる点は、イエスが神であるという事実です。
次に、目に見えない神の似姿であるイエスが、弟子たちに死、埋葬、復活について教えているときに、次のように述べたことに注目してください。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け主をあなたがたにお与えになって、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。世はその御霊を受けることができない。世はそれを見もせず、知もしないからである。しかし、あなたがたはそれを知っている。聖霊はあなたたちとともに住み、またあなたたちのうちにおられるからである」(ヨハネ14:16, 17)。聖霊なる神が誰かの心に宿るとき、その人の霊を義の道に容易に導くことができます。しかしもちろん、聖霊の導きに従って生きるかどうかは、その人次第です。
テサロニケ人への第一の手紙の結びのコメントで、使徒パウロはこう述べています。「平和の神が、あなたがたを全く聖別してくださいますように。また、あなたがたの霊と魂と体が、主イエス・キリストの来臨のときまで、傷のないままに守られますようにと、私は神に祈ります」(テサロニケ人への第一の手紙 5:23)。三位一体の神と同様に、人間にも三つの部分があります。霊(その重要性から最初に挙げられています)、魂、そして肉体です。
次に、目に見えない神の似姿であるイエスが、弟子たちに自身の死、埋葬、復活について教えているときに、次のように述べたことに注目してください。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け主をあなたたちのもとにお与えになる。その助け主はいつまでもあなたたちとともにおられる。それは真理の御霊である。世はその御霊を受け入れることができない。見もせず、知もしないからである。しかし、あなたたちはその御霊を知っている。その御霊はあなたたちとともに住み、あなたたちのうちにおられるからである」(ヨハネ14:16、17)。聖霊なる神が誰かの心に宿るとき、その人の霊に義の道を教えることは容易です。しかしもちろん、聖霊の導きに従って生きるかどうかは、その人次第です。
人間の霊は、すべての霊的な事柄において神とコミュニケーションをとる部分です。 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまこととをもって神を礼拝しなければなりません」(ヨハネ 4:24)。死んだ霊は、生ける神とコミュニケーションをとることはできません。「しかし、生まれながらの人(不信者)は、神の霊の賜物を受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、御霊によって判断されるべきものであるため、理解することもできません」(コリント人への第一の手紙 2:14)(括弧内に説明を追加)。
神のシンプルな救いの計画を聞いた人は、イエスを自分の人生に招き入れ、永遠の罰から救い、天国に永遠の住まいを与える機会を受け入れるか拒否するかを決めます。イエスを信頼する選択をすれば、その人の霊はすぐに生き返ります。「御霊みずから、わたしたちの霊に、わたしたちが神の子どもであることを証しして下さるのです」(ローマ人への手紙 8:16)。拒否すれば、信じられないかもしれませんが、地獄の炎が彼らを待ち受けています。 「しかし私は、蛇が悪巧みでエバを惑わしたように、あなたがたの思いが堕落して、キリストにある純真さを失うようなことがあってはならないと恐れています。」(コリント人への手紙二 11:3)永遠の救いは簡単です。イエスが道を開いてくださったので、あなたがたはただ信じて受け入れるだけです。
「イエスは彼らに言われた。『神があなたたちの父であるなら、あなたたちはわたしを愛するはずだ。わたしは神から出て来た。わたしは自分から来たのではなく、神がわたしを遣わしたのだ。なぜわたしの言うことが分からないのか。わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは悪魔の父から出た者であって、あなたたちの父の欲するままに行うであろう。悪魔は初めから人殺しであり、真理にとどまらなかった。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うときは、自分自身から言っているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからである。』(ヨハネ 8:42-44)
ルカ16:19-31は2人の男の物語です。1人は「ラザロ」(実在の人物の実名)という名の貧しい物乞いで、もう1人は「ある金持ち」として知られています。ラザロは貧しい物乞いだったために天国に行ったのではなく、生まれ変わったために天国に行ったのです。
「ある金持ちがいて、紫の衣と細布を着て、毎日豪華な食事をしていた。そこにラザロという乞食がいて、その金持ちの門口に横たわり、体中できもので、金持ちの食卓から落ちるパンくずで食事をしたいと願っていた。そのうえ、犬が来て、そのできものをなめた。やがて、その乞食は死に、天使によってアブラハムのふところに運ばれた。金持ちもまた死に、葬られた(彼の肉体は葬られた)。そして陰府で苦しみながら目を上げると、はるか遠くにアブラハムとそのふところにラザロがいるのが見えた。そして彼は叫んで言った、「父アブラハムよ、私をあわれんでください。ラザロを遣わしてください。彼が指先を水に浸し、私の舌を冷やすように。私はこの炎で苦しんでいるのですから。」しかしアブラハムは言った。「息子よ、思い出しなさい。あなたは生きている間に良いものを受け、ラザロは悪いものを受けた。しかし今は、彼は慰められ、あなたは苦しんでいる。そればかりか、私たちとあなたの間には大きな淵が定められている。ここからあなたのところへ渡ろうとしても渡れないし、ここから私たちのところへ渡って来ようとしても渡れないのだ。」それから彼は言った。「父よ、お願いです。彼を私の父の家につかわしてください。私には五人の兄弟がいます。彼が彼らに証言して、彼らもこの苦しみの場所に来ないようにしてほしいのです。」アブラハムは彼に言った。「彼らにはモーセと預言者たちがいる。彼らに聞かせなさい。」彼は言った。「いいえ、父アブラハム。しかし、死人の中からだれかが彼らのところへ行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」イエスは彼に言われた。「もしモーセと預言者の言葉に耳を傾けないなら、たとえ死人の中から生き返った者があっても、彼らはその言葉を信じないであろう。」 (ルカ 16:19-31) (下線は追加、括弧内に説明あり)
ラザロと金持ちの話は、文字通り永遠の苦しみの場所という聖書の真実を認めています。イエスがラザロの名前を記録したという事実は、これがたとえ話ではなく実際の歴史的出来事であることを証明しています。
金持ちは亡くなり、人々は彼を墓に埋葬しました。
彼の遺体がまだ墓の中にある間、金持ちはまだ視力、聴力、記憶力、痛みの感覚を持っており、亡くなった家族に同情を示しています。
彼が死んだ瞬間、彼の永遠の魂、つまり見る、聞く、考える、痛みを感じる、亡くなった人への同情心などの感情をすべて含む人間の部分は、すぐに苦しみに襲われました。
23節には、彼の記憶力も非常に鋭敏だったことがはっきりと述べられています。彼は物乞いの名前を呼びました。
「そしてわたしは、死んだ者たちが、小さい者も大きい者も、神の前に立っているのを見た。そして、書物が開かれた。もう一つの書物が開かれた。それはいのちの書であった。死人は、その書物に書かれていることにしたがって、その行いに応じて裁かれた。海はその中にいる死人を出し、死と黄泉もその中にいる死人を出した。彼らはそれぞれその行いに応じて裁かれた。そして、死と黄泉は火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名が記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録 20:12-15)
永遠の命という無償の賜物を受けなかった者(霊的に死んだ者)だけが、他の書物に記録されている罪によって裁かれる。「わたしを拒み、わたしの言葉を受けいれない者には、その人を裁く者がいる。わたしの語った言葉が、終りの日にその人を裁くであろう」(ヨハネ 12:48)。生まれ変わったクリスチャンにとって、彼らのすべての悪行はイエスの血によって償われた。 「わたしは彼らの罪と咎をもう思い出さない」(ヘブル人への手紙 10:17)。
聖書によれば、彼らは金持ちの遺体を埋葬し、彼の魂はすぐに地獄へ行きました。彼の肉体と魂は最後の審判まで分離したままになります。そして審判の日が来ると、彼の魂と肉体は再び結合し、大いなる白い御座の審判のために神と対面します。「そして海はその中にいる死者を出し(肉体)、死と陰府もその中にいる死者を出しました(地獄にいる生きた魂)。そして、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた」(黙示録 20:13)(括弧内に説明を追加)。判決を受けると、彼は文字通り燃える地獄で永遠の刑に服し始めます。「そして死と陰府は火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙示録 20:14)。
人の魂は主にとって貴重です。 「しかし神は陰府の力から私の魂を救い出し、私を受け入れてくださる。セラ」(詩篇 49:15)。残念ながら、多くの人が非常に邪悪な生活を送っています。中には、悪魔に魂を売ったと主張する人もいます。そのため、神は彼らを許さないと信じています。真実は、魂は個人のものではなく、神のものであるということです。「見よ、すべての魂は私のものである。父の魂が私のものであるように、子の魂も私のものである。罪を犯す魂は死ぬ。」(エゼキエル 18:4)
「私は、ナザレ人イエスの名にそむいて多くのことをしなければならないと、心の中で思い巡らしました。そして、エルサレムでそのことを行いました。そして、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込めました。彼らが死刑に処せられたとき、私は彼らに反対の声をあげた。」(使徒行伝 26:9-11)
神を箱の中に入れないでください! 彼らが何をしたとしても、イエスが許さない人は一人もいません! キリストは罪人のために死なれました! どうか悪魔の嘘を信じないでください。 あなたは今この瞬間に神の子になることができます!
イエスを否定することは永遠の破滅を選ぶことです! ですから、もう1分も待たずに、今日神を呼び求めてください。「(神はこう言われます。『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き、救いの日にあなたを助けた。見よ、今が恵みの時である。見よ、今が救いの日である。)」(コリント人への手紙第二 6:2)(説明追加)。
「私はキリストとともに十字架につけられました。しかし、私が生きているのです。しかし、私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。私が今肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげてくださった神の子を信じる信仰によるのです。私は神の恵みをむなしくしません。もし義が律法によって得られるなら、キリストの死はむだになるからです。」 (ガラテヤ 2:20, 21)
生まれ変わるとはどういうことか、さらに詳しく知るために、ぜひ読み続けてください。
この議論の霊的な性質のため、ニコデモはイエスの言っていることを理解できませんでした。聖書は、イエスの答えの霊的な真理をニコデモが理解できなかった理由を説明しています。 「しかし、生まれながらの人(不信者)は、神の霊の賜物を受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、御霊によって判断されるべきものであるため、理解することもできません」(コリント人への第一の手紙 2:14)(説明を追加)。これらの真理を理解するには、人の霊的な部分が生き返らなければなりません(生まれ変わる)。
ニコデモが質問した後、イエスはニコデモに、天国に行くために人生で経験しなければならない2つの誕生について説明しました。
「イエスは答えられた。『よくよくあなたに言います。人は水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊です。『あなたがたは新しく生まれなければならない』と私が言ったことを不思議に思ってはいけません。」(ヨハネによる福音書 3:5-7)
最初の誕生は水から生まれることです。アレゲニー大学の小児神経科学者は、人によって体内の水分の割合が異なると述べています。赤ちゃんは母親の子宮にいる間、水の袋の中で成長します。羊水は完全に水ではありませんが、水は成分の一部です。羊水が破れると赤ちゃんが生まれます。これが最初の誕生です。2 回目の誕生は、あなたの霊に命を与え、天国での永遠の住まいを確保します。
罪は私たちの霊の死を引き起こしました。「それゆえ、ひとりの人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人に広がったのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ 5:12)。ヨハネ 4:24 が「神は霊です…」と教えていることを思い出してください。神を知り、崇拝することは霊的に行う必要があります。死んだ霊が生きている霊的な神とどのようにコミュニケーションできるのでしょうか。それはできません。しかし、悔い改めて福音(イエスの死、埋葬、復活)を信じるなら、あなたの霊は生き返ります(2 回目の誕生)。あなたの生きた霊は、神とのコミュニケーションを回復し、天国にあなたの住まいを確保します。使徒パウロは、「私はキリストの福音を恥としません。それは、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と宣言しました(ローマ1:16)。
聖書は、生きているすべての人が罪人であることを明確にしています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)。1ミリでも何百万マイルでも、短いことは短いのです!聖書はまた、罪の罰についても明確に述べています。「罪から来る報酬は死です…」(ローマ6:23)。したがって、誰かがあなたの罪の代価を払わなければなりません。あなたには2つの選択肢があります。イエスがあなたに差し出したあなたの罪の代価を受け入れるか、永遠の炎の中で自分で支払うかです。「…しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命です」(ローマ6:23)。
神は人間の姿で永遠から抜け出し、私たちの罪の罰を受けました。神がそうされたのは、神を信じるすべての人が、肉体をまとった神として神の姿で永遠に入ることができるためです。「愛する者たちよ。私たちは、今や神の子です。私たちがどうなるのか、まだ明らかではありません。しかし、彼が現れるとき、私たちは彼に似た者となることを知っています。私たちは、彼のありのままの姿を見るからです」(ヨハネの手紙一 3:2)。イエスは、あなたなしで天国で永遠を過ごすよりも、あなたのために死んで地獄に行くことをいとわなかったのです。
生まれ変わったクリスチャンは、自分の救いを自慢する権利はありません。それは彼らの善行によるのではなく、神の善良さによるのです。神が働きをなさり、生まれ変わったクリスチャンが報いを受けるのです。神に栄光を捧げましょう。この真実が、他のすべての宗教と生まれ変わったクリスチャンの違いです。
「私たち自身も、かつては愚かで、不従順で、欺かれ、さまざまな欲と快楽に仕え、悪意とねたみとに生き、憎み合い、互いに憎み合っていました。しかし、その後、私たちの救い主である神の慈しみと愛が、人々に対して現れました。それは、私たちが行った義のわざによるのではなく、神の憐れみにより、再生と更新の洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、私たちの救い主イエス・キリストによって、聖霊を豊かに私たちに注いでくださいました。」(テトス3:3-6)
「太陽の栄光は一つ、月の栄光は一つ、星の栄光は一つです。星の栄光はそれぞれ異なっています。死者の復活も同じです。朽ちるものとして蒔かれても、朽ちないものとしてよみがえり、卑しいものとして蒔かれても、朽ちないものとしてよみがえります。栄光によみがえらされ、弱さに蒔かれ、力によみがえらされる。自然の体で蒔かれ、霊の体でよみがえらされる。自然の体があり、霊の体がある。聖書にこう書いてある、「最初の人アダムは生きた魂とされ、最後のアダムは生かす霊とされた」。しかし、霊的なものが最初ではなく、自然のものが最初にあり、その後に霊的なものが来たのである。最初の人は地から出た、土に由来する者であり、第二の人は天から出た主である。土に由来する者も土に由来する者と同じであり、天に由来する者も天に由来する者と同じである。私たちは土に由来する者の似姿を持っているように、天に由来する者の似姿も持つことになる。(コリント信徒への手紙一 15:41-49)(下線追加)
人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからです。」(ローマ10:9, 10)。人が悔い改める(不信仰から神に立ち返る)その瞬間に、新しい霊的創造物が生まれます。「だから、だれでもキリストにあれば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、新しいものは世に生まれ変わります。」見よ、すべてが新しくなったのです」(コリント人への第二の手紙 5:17)。
この変化は、「…神に対する悔改めと、私たちの主イエス・キリストに対する信仰」(使徒行伝 20:21)によって達成されます。「悔改めとは、罪の悪を発見し、それを犯したことを嘆き、それを捨てる決意をすることです。実際、それは非常に深く実際的な心の変化であり、それによって人はかつて憎んでいたものを愛し、かつて愛していたものを憎むようになります。」
罪人がキリストに救い主として自分の人生に入って来るように求めると、聖霊は死んだ霊に命を吹き込みます。神の息がアダムの魂に命を与えたのと同じように、神の息が霊を生き返らせます。今や彼らは第二の誕生を迎え、神とコミュニケーションをとることが可能になります。「御霊みずから、私たちの霊に、私たちが神の子どもであることを証しして下さるのです」(ローマ人への手紙 8:16)。そよ風に揺れる木の葉のように、罪人の変化した人生は、彼らの霊的誕生の証拠です。人類の救済のための神の永遠の計画は、神からの贈り物です。したがって、まず福音を信じることが不可欠です。イエス(肉体を与えられた神)の処女懐胎、地上での罪のない人生、十字架での死、そして最も重要なのは、復活です。聖書はまた、「敬虔な悲しみは悔い改めを救いに導くからです…」(コリント人への手紙第二 7:10)と述べています。あなたが悔い改め、その結果罪から離れる意志があり、これを達成するのにイエスだけが助けることができると理解しているなら、今日、彼をあなたの救い主として呼び求めてください。「主の名を呼ぶ者はだれでも救われるからです」(ローマ人への手紙 10:13)。神を呼び求めることは、祈りの中で神に話しかけ、あなたの罪を赦し、神に喜ばれる人生を送れるよう助けてくださるよう神を心に迎え入れることです。以下の祈りは模範的な祈りです。空欄を埋めながら神に直接話しかけてください。
祈り: 愛する主なる神よ、私は自分が地獄に堕ちる罪人であることを知っています。あなたに対して罪を犯したことを後悔しています。神の子イエスが十字架上で亡くなり、私のために復活したことを信じています。どうか私の罪をお赦しください。私の心に入って、あなたに喜ばれる人生を送れるよう助けてください。あなたを私の主であり救い主として受け入れます。私の名前を生命の書に記してくださりありがとうございます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
善行で救われたとしても、悪行で再び失われる可能性もあります。しかし、神の恵みによって生まれ変わったなら、神の慈悲によって永遠に救いが保証されます。「私たちが行なった義のわざによってではなく、神の慈悲により、再生の洗いと聖霊による更新によって、神は私たちを救ってくださいました。」(テトス 3:5)
人が肉体的に生まれた瞬間、その人には過去の記録はありません。その同じ人が霊的に生まれ変わると、罪深い過去の歴史は神の目に完全に消え去ります。以下は、あなたを喜ばせる聖書の言葉です:
「聖霊もまた、私たちの証人です。主はこう言われました。『それらの日々の後、わたしが彼らと結ぼうとする契約はこれである。わたしはわたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いにそれを書きつける。わたしは彼らの罪と不義をもう思い出さない。」(ヘブル人への手紙 10:15-17)
「東が西から遠く離れているように、主はわたしたちのそむきをわたしたちから遠く離してくださった。」(詩篇 103:12)
「主は再びわたしたちをあわれみ、わたしたちの不義を制し、彼らのすべての罪を海の深みに投げ捨ててくださる。」(ミカ書 7:19)
今日、主を救い主としてお求めになった方は、表紙の裏に記載されている情報を添えてご連絡ください。私たちはあなたの決断を喜び、神とともに歩む新たな道を喜んでお手伝いいたします。神の家族へようこそ!神の祝福がありますように!